依存症の脱却には「人とのつながり」が大切だと思っている私なんですが、ミュート機能(指定した相手の投稿を見えなくする機能)はどんどん使うべきだと考えています。 なんで?逆じゃない?と思う方に解説します
前提
「依存症は孤独の病」とも言われていて 日常のストレスを感じて限界まで我慢した結果、そのしんどさから依存が辞められなくなるもの、だと考えています。心当たりはありませんか? 自分の考える「こうあるべき」に押しつぶされる事でもストレスを感じてしまいます それを和らげるのが「人とのつながり」 周りの意見を聞いたり、仲間がいる事で不安が和らいだり、依存から離れるのに効果的です 「依存の反対語はつながり」という言葉もあるくらいです 「つながり」の中で「こうあるべき」を諦め、納得し、無理だと受け入れて心を軽くする事ができると思っています
例え話
自分を含めて3人の利用者が居るとします ・応援し合える人、新たな知識をくれる人、Aさん ・スリップを繰り返してネガティブな発言ばかりする人、Bさん がいたとします。
Aさんとは良い「つながり」を持てています。 Bさんは悪い人ではないが、ネガティブな発言で不快に感じてしまったり、自分が不安定になる場面もある
でもBさんも同じように悩む仲間、もしかするとAさんとの「つながり」を持てているかもしれない。でも自分には悪い影響が起こっている。
そこでミュート機能の出番です Bさんの事は尊重します、でも私が辛いのでミュートします。自分が心地よく周りとつながるために、自分の気持ちを尊重してミュートします。
おそらく出てくる疑問への回答
○Bさんとのつながりを断ってしまって良いのか? Bさんとの関係ができているなら断つ必要はありません、不調で一時的に荒れている事もありえますしね。 でももし、Bさんの言葉で自分に悪影響があるなら、Aさんとつながりづらくなるなら、それは対等ではありません。 自分が我慢をさせられる理由は無いです
○この先Bさんとうまく繋がれる可能性を絶ってしまっても良いのか? 可能性はあります、考え方が変わったり、環境が変わって安定する可能性はある でも、自分がダメージを受けて不安定になっているのは今、すでに起きている事です 優先すべきはどちらですか?
○つながりを諦めてもいいのか? 出来ない事は無理だと納得して諦めるべきです 今の自分にBさんの心を開く言葉を用意できないとき、Bさんに聞き入れてもらう力が自分に無いときは、それが出来る誰かに任せるしかないです 諦めずに我慢をして、依存に繋がってきた今があるのだから
区別と差別、つながり方
少し横道に逸れます…最近、あるショート動画を観ました とある黒人差別意識の強い町の住人に、黒人のインタビュアーが質問をします イ「私と、この小さな石、どちらが役に立つ?」 住「石だろ、これが集まってこの道路になった」 イ「俺が隣に引っ越してきたらどうする?」 住「(笑)法的には止められないなぁ」 そして イ「もし全ての黒人を消せるとしたらそうする?」 と問われた時 住「自分の周りにいなければいい」
そう、嫌いでも周りに居なければいいだけなんです。排除する必要も迫害する必要もない。 お互いが納得できる形で棲み分ければいいし、わざわざ近寄って嫌う必要もない。
最近、移民問題が世界中で問題になり、日本でも外国人労働者の受け入れが移民ではないか?と話に挙がることが増えてきました。 この問題を小さな視点で見ると「元々いた人達が我慢させられ、後から来た人達がやりたいようにやる」事が問題になっています。 「お前の家に住ませろ、毎晩朝まで友達と酒飲んで騒がせろ、お前の子供に酒を注がせろ、それが俺達の文化だ」 と言われるようなもの、当然不満が出ます もし海外で「日本の文化だから毎朝味噌汁を出せ」なんて要求しても、嫌なら帰れと断られるでしょう。
今ある文化を理解して尊重し、お互いが心地よく過ごせる事、それができないなら出ていってもらう。それが共生。 一方だけが我慢をさせられるのはおかしいと思いませんか?
もしこの問題を「差別だ」と言う人がいるなら、それは問題の本質から目を背けて、自分の都合を押し通すために「差別」を使う逆差別者か、問題を理解していない理想論者のどちらかでしょう。 「差別をやめろ」という人ほど暴力的に差別意識を押し付けてくるのは面白い。 まともな人は「差別やめろ」ではなく、不遇の改善を謳う。
まとめ
少し話題が逸れました。 大事なのは「自分の気持ちを尊重してもいい」 という事。自分が過ごしやすく、Aさんとのつながりを大切にするためにミュートする。 自分を大切にする為に、つながりを大切にするために、依存から離れるためになら、私はミュートをオススメします。

